大阪大学総長の鷲田清一氏 の感動の式辞 ・・・ 是非お読みください。

大阪大学の卒業式・大学院学位記授与式における、 大阪大学総長の鷲田清一氏 の式辞を紹介したいと思います。

鷲田清一氏(有名な哲学者で、ここ10年ほど大学入試の現代文で一番引用されるらしいです、多数の著書がでています。繰り返し読む価値のある書籍ばかりです)の今年の春の最期の卒業式式辞です。

人間として大事なことを、深い愛情とともに述べておられます。


http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/president/ja/guide/president/files/h23_shikiji.pdf

 

平成22年度卒業式・学位記授与式 総長式辞

本日ここに集われた3507 名の学部卒業生のみなさん、2063 名の大学院修了生のみなさん、そして博士の学位を授与された569 名のみなさん。この卒業と修了の式にあたり、これまでみなさんが尽くされた努力と研鑽とを、大阪大学を代表して心から讃えたいと思います。

また、この日まで長きにわたってみなさんの勉学と研究を支えてこられたご家族の方々に対しても、ここに深く敬意を表したく存じます。

みなさんには真っ先にはなむけの言葉を贈らねばならないところですが、今日はなんとしてもこのたびの震災のことから始めないではいられません。

途方もない災害が起こってしまいました。

きょう卒業式を迎えられたみなさんのなかには、家族を、あるいは家を失い、不安に押しつぶされそうになっておられる親族、友人、知人がおられ、その人たちのことが片時も頭から離れない方がきっとおられるでしょう。また、ここに集われたみなさんの半数近くは、16 年前のあの阪神淡路大震災を身をもって体験しておられるはずです。

学部の人なら小学校に入られたころ、大学院の人なら小学校の高学年くらいだったでしょう。そのときの恐怖やその後の苦難をまだ体の記憶として残したまま、今回の震災の報にふれ、あらためて慄然とされたことでしょう。

その一人であるわたしも、深夜に電気を消すのが不安で、寝るときはいまも蛍光灯をつけたままにしています。

ですから、このたびの地震から2週間経ったいまも、電源を落とした避難所、あるいは孤立した民家で異様なほどに静かな漆黒の夜を迎えておられる人たち、暗闇のなかで「命がけ」の冷却活動にあたっておられる作業員たち、自身も被災しながら夜を徹して救援活動や医療活動にあたっておられる方々、その人たちの心持ちを察すると、いまわたしたちがこうした照明の下でみなさんの卒業と修了とをともに讃えあえることが申し訳なく思えてきます。

被災地のひとたちと、被災の全貌を知ることができずに遠くから案じるだけのわたしたちのあいだには、どうしようもない隔たりがあります。被災の現場に行って被災者の方々にインタビューする放送記者の人たちと被災者のあいだには、おそらくもっと大きな隔たりがあるかもしれません。

それはちょうど、介護施設でスタッフが食事のお世話をしながら「おいしい?」と訊ねることと、ユニットケアの施設でスタッフが入所者の人たちと同じ食べ物をともに口にしながら「おいしいね」と囁きあうこととのあいだの落差のようなものだと思うのです。

別の言い方をするなら、被災地にあっても、被災地から遠く離れていても、いま、「生き残った」という思いに浸されている人はけっして少なくないでしょう。「生き延びた」ではなく「生き残った」というこの感覚にはどこか、被災しなかったこと、あるいはそれがごく少なかったことへの申し訳のなさのようなもの、罪悪感のようなものがつきまといます。

こういう隔たりはだれもすぐには埋められません。すぐには超えられません。
そうしたなかで、いま遠くにいるこのわたしたちのなしうることは限られています。
物資や義援金を送ること。移送の道を、避難の道を塞がないこと。買いだめせずに、いつもより消費を控えることでできるだけ多くの物資が被災地に回るよう心がけることなどです。復興には相当な時間がかかるでしょうが、被災者の受け容れから現地での支援活動まで、遠くにいるわたしたちにもできることがいずれ見えてきます。

その準備にあたることが、いまわたしたちにできる精一杯のことです。


こうした〈隔たり〉について、もう少し考えてみようと思います。

いまわたしは、控えめの生活をすることが、被災に遭わずにすんだ者にできる精一杯のことだと言いましたが、逆に、余所では普段どおりの生活をしているということが復興に向けての「希望」になる、あるいは経済的支援になると考える人もいるはずです。

被災地でも同様のことはあるでしょう。上空を旋回する報道のヘリコプターの轟音に、救出を求める人の声が聞こえないと憤る人もいれば、「だれかが見守ってくれている」と感じる人もいるでしょう。

人の思いというものはこのように、立っている場所でずいぶん異なります。同じ被災地のなかでも〈隔たり〉はあるのです。

阪神淡路大震災のときに、わたしは当時神戸大学の附属病院に勤務しておられた精神科医の中井久夫先生から一つの言葉を教わりました。copresence という言葉です。中井先生はこの言葉を「いてくれること」と訳し、他人のcopresence が被災の現場でいかに重い意味をもつかを説かれました。

被災直後、中井先生は地方の医師たちに救援の要請をなさいました。
全国から多くの医師が駆けつけたのですが、中井先生はじめ神戸大学のスタッフが患者さんにかかりっきりで、応援団になかなか交替のチャンスが、回ってこない。そのうちあまりに長い待機時間に小さな不満が上がりはじめたとき、中井先生はその医師たちに集まってもらい、「予備軍がいてくれるからこそ、われわれは余力を残さず、使いきることができる」と語りはじめました。

そして、「その場にいてくれる」という、ただそれだけのことが自分たちのチームにとってどれほどポジティヴな意味をもつかを訴えられたのです。じっと見守ってくれている人がいるということが、人をいかに勇気づけるかということは、被災の現場だけでなく、たとえば子どもがはじめて幼稚園に行ったときの情景にも見られることです。

子どもがはじめて幼稚園に行ったとき、母親から離れてひとり集団のなかへ入ってゆくときの不安は、だれもが一度は経験したはずです。

ちらちら母親のほうをふり返り、自分のほうを見るその顔を何度も確認しながら、恐る恐るやがて仲間となるはずの見知らぬ他者たちの輪のなかへ入ってゆく……。人にはこのように、だれかから見守られているということを意識することによってはじめて、庇護者から離れ、自分の行動をなしうるということがあるのです。

そしていま、わたしたちが被災者の方々に対してできることは、この見守りつづけること、心を届けるということです。

さて、みなさんは、大阪大学におけるさまざまな専門の勉学と研究とを今日を一区切りとして終え、これから社会のさまざまな現場に出てゆかれます。そしてそのなかでさらに、何かのプロフェッショナルとしてみずからを鍛え上げてゆかれることでしょう。

けれどもここで心を留めていただきたいのは、プロフェッショナルがその専門性を十分に活かすためには、専門領域の知識だけではどうにもならないということです。なぜなら、一つの専門性は他の専門性とうまく編まれることがないと、現実の世界でみずからの専門性を全うすることができないからです。

一つのアイディアを制度として定着させようとするとき、一つの発見を医療の現場で活かそうとするとき、さらには一人の画家の仕事をまとめ展覧会を開こうとするとき、法律や経理、調達や広報といった別のプロフェッショナルたちとしっかり組まなくてはなりません。

別の領域のプロフェッショナルと同じ一つの課題に共同で取り組むことができるためには、自分の専門的知見について、別の専門家(つまりそれについてのまったくの素人)に関心をもってもらえるよう、そして正しく理解してもらえるよう、みずからの専門についてイメージ豊かに説明することがまずは必要です。彼らにその気にならせないといけないからです。

そしてさらにそのためには、異なる分野のプロフェッショナルたちのこだわりをよく理解し、また深く刺激するような訴えかけをしなければなりません。別のプロの、自分とは異なった視線、異なった関心をそれとして理解しようとせず、自分の専門領域の、内輪の符丁で相手を抑え込もうとする人は、そもそも専門家として失格なのです。

ここでもあの、〈隔たり〉をしっかり見つめるということが大切です。同じことは医療スタッフについても言えます。プロとしての自分たちの思いとはうんと隔たったところでものを感じている患者さんやその家族の思いに、十分な想像力をはたらかせられない医療スタッフは、プロとして失格なのです。

みなさんは学業において優秀な成績をおさめられ、社会に出てもさまざまな場所でこれまた優れたリーダーたることをめざしておられるかもしれません。

もちろんそれは間違いではありません。けれども忘れてはならないのは、だれもがリーダーになりたがるような社会はすぐに壊れるということです。一つの事業を成し遂げるには、リーダーとともに、脇役や黒子やコマが要りま
す、昨今、リーダー論の本が書店には溢れていますが、そしてちょっとひねくれた言い方になるかもしれませんが、そもそもリーダー論に素直に従うような人はリーダーになれないということもあります。

リーダーたる人は前例を踏襲せずに、みずから道を開いてゆく人であるはずだからです。

リーダーシップについて論じ、なんとも深い味わいがあるなあと感心した言葉があります。それは、パナソニックの創業者、松下幸之助さんが自社の管理職員の前で話した言葉です。

松下幸之助さんは「成功する人が備えていなければならないもの」として、「愛嬌」と「運が強そうなこと」と「後ろ姿」という、意外な三つを挙げました。理由はあえて説明せずに、です。

この三つの条件について、わたしはこんなふうに解釈しています。

「愛嬌」のある人にはスキがあります。無鉄砲に突っ走って転んだり、情にほだされていっしょに落ち込んでしまったりする。だからまわりをはらはらさせる。わたしがしっかり見守っていないと、という思いにさせるわけです。

次に、「運が強そうな」ひとのそばにいると、何でもうまくいきそうな気になるものです。その溌剌とした晴れやかな空気に乗せられて、一丁こんなこともやってみるかと冒険的なことにも挑戦できます。

次に、だれかの「後ろ姿」が眼に焼きつくときには、見ているほうの心に静かな波紋が起こります。寡黙な言葉の背後に秘められたある思いに想像力が膨らむのです。あの人は何をやろうとしているのか、何にこだわっているのか、ついそのことを考えてしまいます。

そう、見る人を受け身ではなく、能動的にするのです。無防備なところ、緩んだところ、それに余韻があって、それが他人の関心を引き寄せてしまうからです。

軸がぶれない、統率力がある、聴く耳をもっているなどといった心得も、たしかに大事でしょう。が、この隙間、この緩み、この翳りこそ、人の関心を誘いだすものなのです。組織とは言うまでもなく人の集団です。そして、一人一人が受け身で指示を待つのではなく、それぞれにそれぞれの能力を全開して動くそのときに、組織はもっとも活力と緊張感に溢れます。

上司の命を待つのではなく、一人一人が自分の頭で考え、へこたれずに行動できる組織がいちばん活力があるのです。getting things done by others. そういう意味では、リーダーがいなくていい組織を作れるのが真のリーダーだと言えるかもしれません。

みなさんに卒業後求められるのは、専門家としての技を磨くことであるとともに、「成熟した市民」「賢い市民」になることです。

市民社会、その公共的な生活においては、リーダーは固定していません。市民それぞれが社会のそれぞれの持ち場で全力投球しているのですから、だれもいつもリーダー役を引き受けられるとはかぎりません。だとすれば、それぞれが日頃の本務を果たしつつ、public affairs については、あるときは「いま仕事が手を抜けへんので代わりにちょっと頼むわ」、あるときは「本業のこと、ほんとは心配なんやろ、しばらくはおれがやっとくわ」というふうに、それぞれが前面に出たり背後に退いたりしながら、しかしいつも全体に目配りしている……そういうメンバーからなる集団こそ、真に強い集団だということになるでしょう。

いいかえると、日々それぞれの持ち場でおのれの務めを果たしながら、公共的な課題が持ち上がれば、だれもがときにリーダーに推され、ときにメンバーの一員、そうワン・オブ・ゼムになって行動する、そういう主役交代のすぐにできる、しなりのある集団です。その意味では、リーダーシップとおなじくらい、優れたフォロワーシップというものが重要になってきます。

自分たちが選んだリーダーの指示に従うが、みずからもつねに全体を見やりながら、リーダーが見逃していること、見落としていることがないかというふうにリーダーをケアしつつ付き従ってゆく、そういうフォロワ
ーシップです。

良きフォロワー、リーダーを真にケアできる人物であるためには、フォロワー自身のまなざしが確かな「価値の遠近法」を備えていなければなりません。「価値の遠近法」とは、どんな状況にあっても、次の四つ、つまり絶対なくしてはならないもの、見失ってはならぬものと、あってもいいけどなくてもいいものと、端的になくていいものと、絶対にあってはならないものとを見分けられる眼力のことです。映画監督の河瀬直美さんの言葉を借りていいかえると、「忘れていいことと、忘れたらあかんことと、それから忘れなあかんこと」とをきちんと仕分けることのできる判断力のことです。こういう力を人はこれまで「教養」と呼んできました。

昨年亡くなられた文化人類学者の梅棹忠夫さんは、亡くなられる直前のインタビューにおいて、いつも全体を気遣いながら、自分にできるところで責任を担う、そういう教養のあるフォロワーシップについて語っておられました。そしてその話をこんな言葉で結ばれました。

——「請われれば一差し舞える人物になれ」。

もしリーダーに推されたとき、いつでも「一差し舞える」よう、日頃からきちんと用意をしておけというのです。

わたしはみなさんに、将来、周囲の人たちから、「あいつにまかせておけば大丈夫」とか「こんなときあの人がいたらなあ」と言ってもらえる人になっていただきたいと心から願っています。そう、真に教養のあるプロになっていただきたいのです。そのために大学に求むるものがあれば、いつでも大学に戻ってきてください。

大阪大学はそうした学びの場をいつでも開いておきます。

最後になりましたが、みなさんお一人お一人がこれからの長い生涯、幸運に恵まれ、悔いのない人生を送られることを祈りつつ、わたくしからの式辞とさせていただきます。

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